ヤノマミを読んだ

 
好きなブロガーさんが紹介していた「「ヤノマミ」を読み終えた
NHKで放送されたドキュメントの書籍版?らしいのだけれど
書店で手に取り表紙を見た時、あぁ、あの放送のやつだ、と記憶が奥のほうからやってきた
 
先住民や少数民族などのドキュメント映像を見ると
その露わな姿や独特の体に施す飾り(直接身体に施す系のやつ ムルシ族の唇など)
などに、いつも落ち着かない感覚を覚えるのだけれど、あれは一体何なのだろうか
水に垂らした絵の具でマーブル模様を作るみたいに、
はっきりとしてたものがぐるぐると曖昧にになっていくような感じ
そして、見てはいけないものを見ているみたいな、後ろめたいような気持ち
 
しかし文章ではそれは無かった
著者の国分さんのフィルター越しに見ているのだから当然と言えば当然なのだけど
うまく説明できないけれど、ココが安全で安心だと思えるのかもしれない
また、国分さんの言っていることについてほぼ理解共感できたことも大きいと思う(言うまでもなく私的解釈としてだけれど)
 
悪魔と表現された深い森、衣食住、出産など、ヤノマミを知る上で特徴的な事柄
全て私の想像の範囲でしかないけれど(もちろん想像すらできない事も)
基本的には私たち文明の中で生きる人間と同じに思う
働き食べて寝る、男女が出会い家族を持ち(持たない者ももちろんいて)血が受け継がれる
子を想い泣く母、夫婦の小競り合い、年に数回の祭りごと
 
それなのに何故こんなにも文明の中で生きる人間にとって心が乱されるのだろうか
 
私なりに考えた今のところの結論はつまり、国分さんが本文に書いている通り
森に産まれ森を食べ森に食べられる
その円環の一部でしかないということ
生も死も聖も俗も暴も愛も何もかもが剥き出しにある
人間という名の動物
 
この辺のことがやっぱりキーになる
 
そして私たちの生きる文明ではまかり通る常識や価値観が一切通用しないと直感でわかるから
剥き出しの中で生きる人間に私たちが必死に取り繕う仮面なんて何の価値も持たない事に
不安と安堵を感じるのかもしない
 
書いていてわかったけど
あの、落ち着かなくて後ろめたい気持ちって人間としても動物としても絶対的に弱い存在だからなのかもしれない
そうだったのか、と妙に納得してなぜだか鼻がつんとして涙がこみあげてくる
ああ、空気も川も森も善も悪もヤノマミも私もすべてこの一万にわたり続いてきた生と死の一部でしかないのだ
そして知る、私は何者でもないし、私達は「ヤノマミ」には戻れないと
 
全くまとめられない
しかしこのまま今日の日記としよう